記憶に消えないように刻まれた

他の諸観念が、意味ではなく言葉それ自体が理由で鼠コンプレックスにつけ加わった。その言葉は分割払いを意味し、思考の性質あるいは他の半分はいかに思考するのか銀貨との同一視につながる。それは賭博を意味し鼠男の父が借金を重ねて賭博をしていたこともあり、鼠コンプレックスへと組み込まれるようになる。フロイトはこれらの結びつきを、言葉の橋、と呼んでいる。それらは完全に言葉の間の文字上の関係に由来するものなので、それ自体では何も意味しない。それらが支払いに関わる症状的な振る舞いを引き起こしている以上、鼠男を従属させているのは、意味ではなくシニフィアンそのものなのである。鼠男が両親の会話の一部を小耳にはさみ、それを理解するにはまだ幼すぎたにもかかわらず、それが記録され、彼の記憶に消えないように刻まれたと想定しよう。鼠男が小耳にはさんだ会話の一部は、そこでそれ自身の生命を担い、他の盗聴きされた文字、それは、鼠男が見たり聴いたりすることを意図されていなかったのに、実際に目撃されてしまった光景であったり、小耳にはさまれた言葉である、との結びつきを形成したのである。

 

 

根源的で圧倒的

ラカンの仕事のなかでは、構造に異議を唱えるものは二つある。主体と対象、欲望の原因としての対象αである。ラカンが初期の仕事においては現象学的な概念から出発しつつも1950年代には、主体を言語ないし法である他者に対してとられるひとつのポジションとして定義していることである。つまり主体とは、象徴的秩序との関係である。自我が想像的領域の観点から定義されるのに対して、そのような主体は、本質的に他者に対する位置どりなのである。他者についてのラカンの考えが進展するにしたがって、主体は、他者の欲望(母の欲望、親の欲望、あるいは両親の欲望) に対してとられるひとつの構えとして概念化され直す。この他者の欲望は主体の欲望を喚起する、つまり、対象αとして機能する。極めて図式的な観点からラカンの理論の進展を追うと彼は、フロイトの最初期の仕事や自身の精神分析実践からますます影響を受けながら、主体がそれに対してひとつの構えをとる何かを、快感・苦痛ないしトラウマの原初的経験とみなしはじめる。主体は、フランス語で享楽と呼ばれる根源的で圧倒的な経験に引き寄せられつつも、それに対して防衛するという仕方で生起するのである。